教育についての補足としての印象批判 或いはぷらぐまちっくは魔法の呪文

  • もちろん全ての分野で門外漢なので、ググってでて来ることとか、雑誌に取り上げられるような事(具体的にはInterCommunicationの大学特集とか)、しかも日本語ソースしか情報源はないし、さらにはそこから雑駁な印象を育てる事くらいしかしないのだけど。例えば、ドイツのシュタイナー学校のように、自分が仮想敵として(w想定するような日本人(自分の事も含まないとは限らない)なら胡散臭く思うようなものが、日本人の想像を超えたところで普通に社会的に機能し、歴史を持ち、最近広がりを見せ、その影響で総合学校が公教育として立ち上がったりそんなにうまくいってないとか、など、ふーんって感じで、ボトムアップに対する公側の対応について、総合学校って言う形は既存の公教育に対するオルタナティブな体系を一本丸々作ってしまうような印象をもつし、そこには模索する事への姿勢の筋の太さを感じる。あーなんか日本と違うなあ。
  • またまた大雑把なことを言うと、例えばアメリカに比べて、どんな人間を輩出していくかと言うビジョンにおいて日本はプラグマティズムが欠けてる印象が強い。大学の英語のテキストにあったイギリスの教育制度と比べてもまた別に同様な印象をもつ。学校の勉強では英語が話せるようにならない(特に根拠のない定説のようにも思うけど)ことなども、なぜ改善しようとしないのか理解できない。ゆとり教育というのも即物的になにをどうしたいのかよくわからない。また、政治と絡まってへんなイデオロギーの捌け口になりやすいのは特に日本に顕著なことでもないのだろうか?荒川区のうんぬんとジェンダーフリー(教育)バッシングは関係していると思うし、また大学改革ばかりがなんでエコノミクスに突出してプラグマティックになるのか意味がわからん。どんな改革もトップダウンが最終的にある訳だが、トップダウンとして降りてくる施策にボトムアップからのプラグマティックな裏づけがない、あるいはずれてるように思えるのはなぜなのか。トップが浪花節イデオロギー的な思い込みから変な介入をしてるんじゃないのみたいな印象をもつのだけど。あーなんか日本は一味違うなあ。
  • またまたまた大雑把な印象として、外国と比べて一般に、日本は制度が儀式的に自己目的化する傾向が強いように思う。
  • 閑話休題。国連化をいう議員の話だけど、好意的に考えて、実は議員の皆さんは国連の実際のオペレーションを担当する具体的なセクションを想定して、その影響強化を具体的に考えた上で、下々向けに素っ頓狂なお話を下賜なさっておいでなのかもしれない。「国連様」じゃなくて「俺国連」のビジョンをお持ちなのですきっと。
  • まあ、別にどうでもいいか。