「どうでもいい」議論のことのメモ

  • 「メディア」が主体的なもの(湯川氏)か客体的なもの(切込隊長氏)なのかの違いと敷衍してみる。それは記者であるとかそういう属性の事ではなく、主体性の違いと言い得るようなもの。後者が過去から繋がる現在を語っているのに対し、前者は未来につながる現在を語っているんがーとかいう側面は影響している。湯川氏がメディアの中でもマス媒体についてまで自己主体的に捉えているのに対し、切込隊長氏はマス媒体としての主体性は意識上退避的で自らのメディア性を直接のクリエイションに多く認めているように思われる。変なたとえを持ち出して、水面のどこに波紋を立てるか考えるのか、水面のどこに波紋が立つかを予想するのか、の違いとかいうと何か陳腐さがいい感じ。そりゃ話が合わんわな。それはいいコミュニケーションだ。
  • http://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=396に関して。例えば所謂「大きな物語の終焉」的なものを視界に入れていってみるとすれば、そもそも「マスコミュニケーション」は平均化という特異点の上に成り立つ産物なのだから、ターゲットとなる「世の中の最後尾」がある閾値よりもすくなくなった時に消滅するだけなのではないか、と思う。「F2層が〜」などというものの延長線はそんなところじゃないかしら。<マス・・・それは無理じゃないかな>という感覚はすでにある。現実の曲折を度外視すると、統治やケアや広告などのサービスのパーソナライズは「マス」を駆逐するんじゃないかという思い付きがすんなりと腑に落ちる。