少々苦言を労するとすれば

  • 誤解を生じやすいニュアンスなのでまあ馬鹿扱いされても構わないのだけれど。「ああ自分が好きなんだねよかったね」っていう話とは違うので。
  • オタクやらサブカルやらを側面的な観測から否定したり、あるいは中二病やらなにやらその種の事について何かしら言いたがったりするような者など、大体において彼らは自分やその人生に萌え狂っている類の輩に他ならない。一般における思考力が高い割りにはこの陥穽にどれほど自分が嵌っているかということを今一測りきれていなさそうな御仁も(私がアンテナ登録しているサイト中にも)多く、どうにもこの観点での自省を有用視するのが難しいのだろうか。それは百姓に学問はいらねえっていうのと同じような状態なのだけど。
  • ちょっと転換するとして、そもそもなぜその話をするのかという理由の中に「自分に萌え狂っているから」という要素を入れることが考えられていない、あるいは避けられているというようなことである。たとえばそういう傾向から、http://www.aa.alpha-net.ne.jp/nagao3/book1-7(nakajima).htmあたりの話との関連(オヤジの呑み屋話みたいなもんだけど)が導ける筋もあるように思う。
  • 自分ではないものをどのように平気でいるのかということの諸要素の分類における1つ、ともでも言えるか。自分に萌え狂ってることについては何%とかとか。
  • こういう場合は、戦慄を萌えの対立概念としてもいいかもしれない。戦慄するべきものに戦慄できていない状態が萌え(否定神学)、とか・・・あーこれは糞下らないな。
  • つうかたぶん、普通の人は自分に萌えているものなのだ。それがのんべんだらりと生きている現実の基本的な感覚だったりするし、だから外部化された自分とかけ離れたものへ萌える状態は現実感の失調へと繋がりそれを気持ち悪く感じるのだ普通の人は。そこで、だから、自分萌え以外の萌えは変態とされることにもなる。おおすごい今頃萌えの定義に参入している。