「最近全然面白い作品に出逢えないなぁ」というせりふ

  • をよく見かけたり聞かされたりすると思うが、経験上とある関心分野において優れたものと言うのは数限られているものだと思え、見出しのような事というのは概して話者自身の変化が停滞している、興味関心分野が変転しないのが悪いのだろうがと思うが如何なものか。つうか「最近の面白い漫画がない」っていうやつ多すぎ。面白くなくしているのお前だ。
  • 面白くないと思うものでも、その存在意義の説明を受けて、頭ではその面白さに同意できるもの、面白いとは思わないがアクチュアルであることは同意できるもの、面白がれるのはわかるがちょっと幼稚とか素朴とかパーソナルクリティカルとかその他なんじゃねーのなもの、などなどなどあーディスカーディスカー。
  • 深いところまで達している作品があったとして、それを特に優れていると思うのならば、それに匹敵したり凌駕したりするものなどそう簡単に出てくるものではないのは自明と思われ、次が出てくるまでの暇を持て余さないためには関心を広げ異なる面白さに気づくが一番だと思われる。或いは、現在の関心に囚われない意識を持ち楽しさの感受性を開いておけば、面白いと感じることを手がかりに関心領域を広げることもできよう。関心が広がれば、以前いいと思ったものもまた別の視点で味わえるというおまけがつく場合もある。今にして思えば大した事無いなあとか凄いのは凄いが凄さ自体が不毛みたいな感想に変わる場合も多いがにょん。
  • 関係ないけど古い話を思い出したのだけど、メタにも免疫ない人多すぎ。メタがちょっと多重になったくらいで「不毛な堂々巡り」とか「終わらない相対化」とかいうな。大体がメタのメタ、メタのメタのメタくらいで実際的な範囲に収まるものと経験上思われ、その程度の我慢ができない奴が全く鬼の首を取ったように(ry。そもそも「2ch的はしごはずし」なんてかつて抑制されてきた様々なオルタナティブが顕在化することで日本社会に与えられるインパクトへのいかにも日本教的反応の一表象に過ぎないじゃん。もっと「いろんな人がいる」ことを正面から捉えられるようにならないと。あと違う視野で捉えることとメタの区別がついてない場合なんかもあるよな(それメタじゃなくて君が考えられてないだけだって、みたいなの)。