ヒステリーを見つめる人たち

  • 日本人はヨーロッパ人よりも個人主義的だ、という言葉が何について述べているのか。私はかつてオーケストラの音楽の単位時間当たりの複雑性、多くの要素が同時に進行する事の複雑性の楽しさ語ろうとしたとき、「要素が一纏まりになる」と言う言葉を使って、「その時点で単純じゃん」と返されたことがある。多分相手の念頭にあったのはジャズで、モンドリアン的な抽象を思っていたのだろう。だが、この対立には折りたたまれた時間の感覚の相違がある。このような相違を調停する試みを放棄する習慣に個人主義という切り口を当てる事に、かなりの日本人は慣れていないと思う。私にとって政治的な焦点とはこの個人主義に「悪しき」という冠を与える合意についてのものになる。また、この調停の試みが放棄されるその放棄のモーションをヒステリーと呼ぶことへの理解は少なくない日本人にとって難しい事ではないと思う。日本人はこのヒステリーを認めるが、これを悪しき個人主義として解消する政治には大変に及び腰だと思う(日常的には私も相手の及び腰に合わせている。この点自分の日常行動を私は全く肯定しない。私はこの点を以って自分の社会的意義に否定的だ)。この調停が社会契約なのではないだろうか。社会契約とはそういうものなのではないかと、感覚的に思っている。ヒステリーを見つめ立ち竦む所には社会契約は生じていないのかもしれない。
  • ま、「日本は近代ですらない」論ですな。でもその側面はあると思うよ。優れている事以って、劣ったものを隠蔽することを肯定するのも個人主義だと思う。社会は個人ではない。群れを成している人間は、個別の人間を一人ずつ数え上げるのとは違う。一方ではそれは全体主義なんじゃと言う話になりそうだが、全体主義と名づけられた実態は社会の個人化・人格化、社会の個人主義(当然「悪しき」)ではないかと思うので。
  • また、私は個人の個人主義には大きく肯定的で、実践も多く自分はしていると思っている。やはりこのとき、自分の行動から社会の個人主義の誤りを切り分けるのは難しく、自分に懐疑的なる一因になっている(小さなヒステリー)。でもそれは、死ぬまで時間をかけて調停を続けるのでまあいいんじゃない。「時間をかけて」ってのも今の人は苦手だよね。ヒステリーを捏ねて小さくするって事も大切で、その為には時間をかけること、かけられる時間を認めることが有用になってくる。時間感覚の短さと象徴されるところに若さってのがあるわけで、変に社会が若いのも上ッ方の運営の失敗なんじゃありゃぁせんか。