ポータブルミュージックプレーヤ

  • って、怖えなと。ここ最近の会社の行き帰りで、クラシックを高頻度で聞くわけですよ。
    何かと言うと、まあ内田のベト後期ソナタはまあいいんだが(よかないが)、殊にテンシュテットマーラー大地の歌の終楽章やら3番の終楽章やらを聞くわけです。あんなものを聞きながら会社いっちまうのですよ。おかしいでしょ。そういうのも人間のキャパシティを示すと言うか。3の終楽章なんか弦(あの執拗な)と木管金管それぞれの座の違いを都度また目新しい気分で感じ直しながらそいういう音楽に媒介された現在に淫しながらそのへんを歩ってるのです。
    ああいう都市や近代性が人の生活に対してフォローしようとしたものをある種スポイルしようとする力にその只中にあってアクセスできるのって倒錯的だし、平常をひねって変えてしまう使い方の出来る道具ってのは楽しい。昨日から柳田國男を読みながらそんな状況で、楽しすぎです。現在などどうとでもどうぞ。という体の状態を通勤の一時間をかけてじっくり作ってから、出社していく日々。これもまた音楽が生死とかかわりを持つ点に生じる特有のエロティシズムの一つだと思うのです。
  • 時について、「過去」の遍く様(未来概念は過去に帰属)を、「現在」の特異点としての聖性を、ますます強く感じるという近頃の所存です。所存ていう言葉の意味ってどんなだろ。