例えばソル=ギヒョンのコメントについて

  • (via http://d.hatena.ne.jp/hinakiuk/20050127/p2より)人種差別的野次を受けたソル=ギヒョンのコメント「ファンがどんなことを言おうと構わない。非難めいたものを浴びせられるのは普通のことだし、別になんともないよ。よい選手になろうと思うなら、そういうのは無視できないとね。」 個人としては問題は無いのだが、それとしてもサッカー選手としての合目的的なシンプルさにまみれすぎていて、なんというかまさにお里が知れてしまうコメントだなあと思う。おそらくは韓国社会にとっても「外国に出た、それによって韓国人が代表される」人物、自ずとされてしまう人物としては不十分なコメント。
    これにより、ソル=ギヒョンのバックグラウンドである出自社会において人種差別の問題認識が西洋における水準に達していないであろう事が容易に推測できてしまう(またそれは事実であろうし)。それが東アジア社会の後進性として捉えられる事は必ずあるだろうし、人種差別主義者のみならずポリティカリーコレクトな人々のうちのある種のリアリストに対して東アジア人種の後進性という人種差別の種を蒔くことにもなりかねない。と言うか確実に蒔いている。というか自分は「これはアジア人社会とその担い手の認識のプリミティブさのサンプルだ」と思った。個人の感覚が社会背景を写す好例。
  • で、こんな書き方をするのはむしろ有害という事を一つ上で書いたとw。orz
  • 多民族社会において、人種差別の不合理性と言うのは、論理的によりも寧ろ経験的に了解されている事だと想像する。自分にとってその経験知は想像できるのみだが、その知は論理的に書かれて然るべきだと思う。そういう語り口とセットでないと「我々」には効かない? あまり出会った覚えが無いのはたぶんプリミティブで常識的過ぎるが故にだと思うんだけど。あとは陰謀論的な理由かしら。